ウラニアさんとあすなろ学院生との交流記録:プラハからの便り(日本語訳)

[海外 report]みんなの声 What’s up?

英語の原文プラハからの便り(2020年5月30日掲載)の日本語訳を掲載します。

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私の名前はウラニアです。地中海のキプロス島の出身です。16歳までは故郷のNicosiaという街で育ちました。両親はそこで音楽学校を経営していました。音楽が私たち家族の生業だったので、私が生まれて初めて聴いた音はピアノやバイオリンの音色だったのです。その後、私の心に育まれた音楽への愛が私を『ヨーロッパの心臓』と呼ばれる美しい街プラハへ私を導いたのだと思っています。そこで私はもっと深く豊かに音楽についての知識を身につけたのです。私がプラハの土を初めて踏んだ日、これから先3年間のブランクを除いて、何世紀にも渡る伝統を誇るこの街の音楽界の一員として人生の大半を過ごすとは夢にも思いませんでした。プラハ音楽院での課程を修了した後、私はカレル大学で音楽学を研究しました。200212月に論文を提出し、音楽修士の称号を得た後、20031月、ピアノ演奏の博士号を取得するという更なる夢を実現するためにアメリカ行きの飛行機に乗りました。

アメリカで過ごした3年の後、運命に導かれるようにプラハに戻り、それ以来ずっとこの街に住んでいます。プラハで働いて生活する事は大変有益ですが、しかし同時になかなか大変でもあります。有意義な点は芸術が大変価値の高いものとして認識されており、そのレベルも非常に高いという事です。良い音楽家(老いも若きも関係なく)であるための競争は激しく、その高い水準についていくためには個々人の能力の発展、教育、そして日々の鍛錬が不可欠です。一方でプラハに住む事は困難も伴います。すべての人々が、私が外国人であり彼等の中に入り込んでキャリアを重ねている事について好意的というわけではないからです。特に初めのうちは大変でした。私は彼等と同等であると示さなければならなかったからです。その頃に比べると今は随分と楽です。ここには私が愛し尊敬して気持ちを分かち合える親友や人々がいるからです。美しく文化的に豊かで、ヨーロッパの中心部に位置しているがゆえに望む所どこへでも行けるプラハに住む事はまるで夢のようです。

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