コラム:日本史小話【11】歴史の境目を生きた徳川家康

[コラム]日本史小話


濱口先生
(関西学院大学大学院文学研究科/日本史専攻)*執筆当時

歴史の境目を生きた徳川家康

こんにちは。日本史担当の濱口です。

今回でこの連載コラム「日本史小話」はラストとなります。今回のテーマはずばり、徳川家康です。天下人3人のうち、織田信長と豊臣秀吉は取り上げて、来年2023年放映予定のNHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公である徳川家康だけを取り上げないのはなんだか歯がゆいですよね。また、今回は徳川家康が生きた戦国時代についても言及していきたいと思います。


最初に、戦国時代について改めて述べていきたいと思います。戦国時代には、一国以上を支配する戦国大名と、その戦国大名に従う郡レベル(現在の市町村レベル)の地域を支配する国衆が存在していました。国衆は独自では領国の平和を維持するのが難しく、戦国大名の保護によって成立していました。この関係性を企業にたとえると、国衆という中小企業が営業していくために戦国大名という大企業のグループの傘下となり、子会社として働くようなイメージです。イメージできたでしょうか。

ではもし、大企業である戦国大名が子会社である国衆を十分に保護してくれない場合、国衆はどうなると思いますか。答えは簡単です。近くの別の大企業(戦国大名)の傘下となるのです。特に領国と領国の境界である「境目」と呼ばれる紛争地帯は、この保護の関係が強く求められていました。今回の主人公である徳川家康は、はじめ今川氏のもとで境目の国衆として織田方と戦い、三河国(現在の愛知県の東半分)を平定した後も武田氏織田氏境目の戦国大名として生きていた人物になります。

次に、このような境目に生きた徳川家康についてお話ししていきましょう。

まずは、徳川家康が織田信長と同盟を結ぶきっかけとなった桶狭間の戦いについてです。昔は今川義元上洛のために織田氏の尾張(現在の愛知県の西半分)に侵攻したと考えられてきました。しかし、現在は織田方との境目である尾張国鳴海領(愛知県名古屋市緑区辺り)を確保するために出兵したと考えられています。地域を確保するための出兵でまさか命を落とすとは、今川義元本人も思っていなかったでしょう。この結果、織田氏と今川氏の境目が西三河地域となり、家康は完全に境目の国衆となってしまいました。

ここで家康が考えるのは、どちらがきちんと保護してくれるかという問題です。敗戦後の今川氏は、バタバタしており三河地域への対応が後手に回りました。そうなると必然的に、家康は今川氏を見限り織田氏に保護を求めたのです。ここで信長と家康の同盟が結ばれました。決して昔から仲良くて同盟を結んだのではなく、政治的に考えて信長と同盟を結んだことがここからわかります。その後家康は、信長が亡くなるまで織田家の有力大名として対武田氏の最前線として奮闘することになります。

では、信長没後に天下人となった豊臣秀吉との関係はどうだったのでしょうか。よくいわれるのは、秀吉が家康を恐れていたというイメージだと思います。また、恐れていたため京都から遠い田舎の江戸へ移動させたという説も聞いたことがないでしょうか。このようなイメージを持たれる理由として、戦上手な家康が小牧・長久手の戦いで大軍勢の秀吉と引き分けた影響だと考えられます。しかし、この戦いの本質は誰が信長の後継であり天下人となるのかであり、長久手の戦いで家康が勝利してもそれは局地戦での勝利にすぎないのです。そのため、秀吉が家康を恐れる要因になり得ないのです。また、江戸については家康によって開発され発展したといわれてきましたが、実は元々開発されていて家康が来る前からも交通の要所として存在していました。

さて、秀吉は家康を恐れていないにも関わらず、なぜ江戸へ移住させたのでしょうか。それは、秀吉政権内の家康の役割が大きく関わります。その役割とは関東と東北を安定させることです。信長の時代から両地域とコネクションがあった家康は、その役割を引き続き担ったのです。秀吉は家康にこの役割を遂行させるため江戸へ移住させました。家康がこの役割を拒否することは、豊臣大名としての立場を失うことを意味するので、命令に従うしかなく強制的に江戸へ移住させられることになります。このように、家康は秀吉と対等だったわけではなく、むしろ秀吉に従属する一家臣の立場だったのです。


今回が最終回なので、小話にも関わらず長く述べてしまいました。
最終的に天下をとったということで、常に天下を狙って動いてきた家康のイメージがありますが、今回のお話からわかる通り、家康は必死に生きて、たまたま天下を取ったといってもよいでしょう。境目の国衆から戦国大名までのぼり詰めますが、そうなると次に上司である信長や秀吉の命令に柔軟に対応することが求められました。まるで現代社会に生きる我々の姿を彷彿とさせる生き方ですね。なかなかハードな人生だったと思いますが、天下人になれたので結果オーライだと個人的には思っています。


「日本史小話」では、教科書で学ばないような細かな話や現在の歴史学で考えられていることを話してきました。これをきっかけに少しでも歴史に興味を抱いていただければ幸いです。ここまで様々な話を述べてきましたが、テーマを決めたりわかりやすく話をまとめたりする作業は、なかなか大変でした。しかし、このような経験は得られるものも多く勉強になりました。毎回つたない話を読んでくださった読者の皆様に感謝いたします。また、このようなお話をさせて頂く機会を与えてくださった岸田先生にも御礼を申し上げます。


*Y.H先生は2022年度から社会人として就職されるため、Y.H先生の個別指導は終了いたします。

コメントは受け付けていません。