火曜コラム:日本史小話【4】織田信長、実は…… -解釈によって変わる人物像-

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[火曜コラム]日本史小話


濱口先生
(関西学院大学大学院文学研究科/日本史専攻)

織田信長、実は…… -解釈によって変わる人物像-

日本史担当の濱口です。今回は皆さんがよくご存じの織田信長についてお話しさせていただきます。


皆さんが考える織田信長のイメージとはどのようなものでしょうか? カリスマ的革新的という感じでしょうか? 実はですね、現在の研究ではそのようなイメージが大きく変わりつつあるのです。例えば、信長の諸政策や天下布武についての意味などの認識が変化しているのです。学校の授業で下の写真を見たことがないでしょうか。

これは織田信長が岐阜を制圧した以降に使い始めた印鑑で、「天下布武」と書かれています。この天下布武の意味については、従来武力をもって天下を統一するという意味だと考えられていましたが、現在ではこの「天下」が五畿内(山城・河内・摂津・和泉・大和)*を指していて、沈みかけていた室町幕府を将軍足利義昭と共に再興するという意味ではないかという考えが主流になっています。この考えによれば、天下布武印を使い始めた当初は、天下統一という野望より、室町幕府の再興が目的だったのです。天下を最初から狙った行動ではありませんでした。

少し話はそれますが、今川義元が上洛するために織田信長と対戦し「桶狭間の戦い」で敗れたという考え方も今では否定されています。戦国時代においてどの大名も天下を狙っていたという考え方は江戸時代の影響が強いと思われます。この話はまたどこかでいたしましょう。

先ほど述べた通り、信長の様々な革命的な政策についての認識が考え直されています。多くの政策は他の戦国大名が当時行っていたことを真似たものであり、信長独自の政策ではないと考えられています。以上のことから、現在の信長のイメージは革新的の真反対である保守的な人物だったと思われています。決して0から100を創り出した革命者ではなく、7080だったものを100にした者と評価できると思います。

このように解釈は時代によって変わり、人物像や歴史というものは、解釈によって変わっていきます

次回は、昔のイメージに引っ張られがちな「関ケ原の戦い」について、現在の考え方を踏まえお話しします。

五畿内山城・河内・摂津・和泉・大和)
五畿内とは、朝廷の置かれていた首都(京都)周辺の5か国(山城・河内・摂津・和泉・大和)の総称。
参考)「畿」は古代中国で王城から五百里四方の地を意味する。(明鏡国語辞典第二版より)
山城・河内・摂津・和泉・大和とは昔の国名で、現在の京都府、大阪府、兵庫県、奈良県の地域にあたる。
参考)山城=京都府/河内=大阪府/和泉=大阪府/摂津=大阪府と兵庫県の一部/大和=奈良県(精選版 日本国語大辞典より)

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