コラム:日本史小話【5】関ケ原の戦い-時代により変わる解釈-

[コラム]日本史小話


濱口先生
(関西学院大学大学院文学研究科/日本史専攻)*執筆当時

関ケ原の戦い -時代により変わる解釈-

こんにちは。日本史担当の濱口です。

前回は、革命家的なイメージが否定された織田信長についてお話しさせていただきました。さて今回は、天下分け目の戦いといわれる関ケ原の戦いを取りあげます。

豊臣秀吉の死後、毛利輝元を総大将とする西軍徳川家康を総大将とする東軍が岐阜県関ケ原町で対峙し、歴史を大きく動かす大決戦を繰り広げたのです。


まず、なぜ関ケ原という場所で行われたのかお話しします。ここは、もともと古代の日本三大関所の一つである不破関があった場所であり、東国または西国に行くためにはこの場所を通る必要がありました。そのため、西国と東国の境目であるこの地が天下分け目の戦いの舞台となったのです。また、興味深いことに「関東関西」の名称はこの不破関からきています。つまり、関の東を関東、関から西を関西と呼称することから「関東・関西」という名称になったとされています。

では、本題の関ケ原の戦いについてお話しします。現在、関ケ原の戦いは豊臣政権内における徳川家康派と反家康派の戦いであったとされています。重要なのは、関ケ原で勝利したからといって、即徳川家康政権が成立するわけではなかったということです。これは、この戦いが豊臣政権下での内戦という性質をもっていたからです。そのため、家康が勝利したといっても、それは豊臣政権下で政治をリードできる立場を獲得しただけで、決して徳川家康政権ができたわけではありません。もちろん、この戦いがきっかけで家康の権力が大きくなったのは事実です。

 

さて、この戦いで有名になった人物、小早川秀秋をご存知でしょうか。彼は一応西軍方の武将でしたが、優柔不断で最後まで東軍か西軍かどちらにつくのかを迷っており、徳川家康軍から威嚇射撃を受けて、その射撃にびびって東軍につきました。その結果、西軍が総崩れとなり東軍が勝利したのです。そのため、彼の裏切りによって関ケ原の戦いの勝利が決まったといわれています。なんとも不名誉なことだとは思いませんか。現在このような話は事実無根であり、秀秋は裏切ったのではなく最初から東軍方の武将だったと考えられています。なぜこのように伝えられているのかというと、秀秋が東軍につくことは内々に決まっていたものの、その情報は一部の重臣にしか知らされていなかったからです。そのため、他の家臣には秀秋が西軍を裏切って東軍についたと見え、このようなエピソードがつくり出されたと考えられています。

今回は関ケ原の戦いに関することをお話ししました。皆さんは、このお話が石田三成について触れていないことに気づかれたでしょうか。従来この決戦は、石田三成対徳川家康といわれることが多かったと思いますが、先ほど述べた通り関ケ原の戦いは家康派と反家康派の戦いです。石田三成は反家康派の中の一人ということを強調するため、今回はあえて大きく取りあげることはしませんでした。


前回と今回のお話で、歴史上の人物像や合戦の様子などがのちの時代の解釈によって変化することをおわかりいただけたかと思います。歴史は、解き明かすことで見えるものが全く違ってくるところが面白いのではないかと思います。

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